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怪談教室

依頼

881 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:27:28

師匠から聞いた話だ。

大学一回生の秋だった。
僕は加奈子さんというオカルト道の師匠の家に向かっていた。特に用事はないが、近くまで来たので寄ってみようと思ったのだ。
交差点で信号待ちをしていると、道路を挟んだ向こうにその師匠の姿を見つける。少し遠いのと珍しく車がバンバン通っているので、呼びかけても気づかない。
その師匠は去って行くでもなく、電信柱のそばで立ち止まったまま動いてない。
どうしたんだろうと目を凝らすと、電信柱の根元のあたりになにか落ちていて、それを見下ろしているらしかった。
どうもビニール袋に入った菓子パンのようだ。
僕の観察している前で、師匠はやがてキョロキョロと周囲を窺い始めた。
まさかと思って見ていると、スッと腰を落としてそのパンを拾い上げ、服の内側に抱え込むと足早に立ち去って行った。
拾い食いかよ。
俺は我がことのように猛烈に恥ずかしくなった。
歩行者用の信号が青になり、後を追う。
説教だな。さすがにこれは。
角を曲がってもその姿は見えない。逃げ脚、早過ぎだろう。
師匠の家に向かいながら、最近金欠気味のようだったことを思い出す。
師匠は継続してバイトをしている形跡がなく、大学の掲示板に張り出される単発のバイト募集を眺めているところを何度か目撃している。
いつもお金に窮していて、たかられることが多々あったが、かと思うと急に羽振りが良くなり、変なものを買い込んだりしては散財し、またキュウキュウになって家でぐったりしている、といった具合だ。

882 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:32:19

傍から見ていると実に面白いのだが、たかられるのは迷惑だった。
師匠の家に着くと、僕は乱暴にノックをする。応答があったので、挨拶をして上がり込む。
僕はすぐにその部屋の中を観察したが、パンの袋は見当たらない。
「今、パンを拾いましたね」
明らかに狼狽した。
「拾ってない」
「見ましたよ。もう食べたんですか」
「拾ってないよ」
続けて詰問したが、頑としてその事実を認めなかった。僕はやがて根負けする。
「分かりました。もういいですよ、どうでも」
「落ちてるものを拾って食べるほど落ちぶれてないよ。失礼極まりないなお前は。しかも賞味期限切れのものを」
いいです。僕が悪かったです。
妙に引っ掛かるものがあったが、これ以上不毛な会話をするつもりもなかった。
かと言って有毛な会話も特になく、顔も見たことだし、帰ろうかと腰を浮かした。
すると師匠は「なにか食べるものを買ってこい」とのたまう。
「そうだ。昼飯食ってないだろ。手料理を食わしてやるから、材料を買ってきなさい」
言い方を変えたが、ようするにたかる気だ。溜息をついて外に出た。そして近くのスーパーに向かう。
指示されたものを買い込んで肌寒さの増した住宅街を歩いていると、すっかりの彼女のペースにはまっている自分に気づく。そしてそれを案外心地よく感じていることも。
「帰りました」
ドアを開けて、ピニール袋を足元に置く。

883 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:35:31

ちょうど師匠が家の電話を切るところだった。
「予定変更だ」
「え?」
「飯のタネが発生した」
言いながら、師匠は身支度を整え始める。
「そう言えば、お前はまだ連れて行ったことなかったな」
「なにかのバイトですか」
「バイトと言えばバイトだな。面白いぞ。一緒に来いよ」
料理の材料を冷蔵庫に放り込み、連れだって外に出た。
軽四に乗り込もうとして、「あ、ガソリンやばいんだった」と止まり、「自転車で行こう」と言うので師匠の自転車に二人乗りで目的地に向かう。
もちろんペダルをこぐのは僕だ。
どこに行くのかを訊いても、いいところ、とはぐらかされる。僕は師匠の指がさす方向へハンドルを向けるだけだ。
やがて自転車は市内の中心街から少し離れた一角へ入り込む。新旧の雑居ビルが立ち並ぶ中を進んでいると、「ここだ」と肩が叩かれる。
そこは三階建ての薄汚れたビルで、一階には喫茶店が入口を構えている。
そこに入るのかと思っていると、師匠はその入口の横にある階段を上り始めた。
思わず上の階を見上げると、二階に消費者金融の看板が掛っている。
二の足を踏んだ。
なんなんだ。もしかして、僕に借りさせる気じゃないだろうな、と思って疑心暗鬼にとらわれる。
しかしあの人だけはなにがあってもおかしくない。
どきどきしながら狭く薄暗い階段を後に続いて上りはじめる。
師匠の背中を見上げると、二階のドアを通り過ぎてさらに上の階へ伸びる階段へ足を掛けるところだった。

885 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:39:03

三階? 何の店が入っていたか思い出そうとする。が、ビルの外観の中でもほとんど印象に残っていない。
階段を上りきると師匠がドアの前で待っていた。
親指を立ててそのドアに書かれている文字を指し示している。
『小川調査事務所』
そう読めた。控え目な字体と、大きさだった。
「こんちわー」
師匠はノックのあと、ノブを捻ってドアを開け放った。
瞬間、コーヒーの匂いが鼻腔に漂う。
殺風景な室内はデスクがいくつかと、色とりどりのファイルが押し込まれているスチール棚が奥に見えた。
それから入口やデスクのそばに鉢植えの観葉植物。
一番奥のデスクに組んだ足を乗せて書類をめくっていた男性が「おお」と声を上げる。
ここにいるのはその人だけのようだ。
「依頼人は?」師匠が近づいていく。
「まだだ。最近顔を見せなかったな」
男性は書類をデスクに放り投げ、椅子から立ち上がる。
「仕事もないのに、こんなところに来るかよ」
「冷たいな、そう言うなよ。……コーヒー飲むか」
コーヒーメーカーのそばに向かいながら、男性は僕の方を見た。
「キミは誰?」
というか、あなたが誰ですか。
ここはもしかして興信所というやつだろうか。よく分からない展開だ。
「助手だ。邪魔はしない」と師匠。
「へえ。コンビを変えたのか、夏雄から」男性はコーヒーを僕の前に差し出す。
「キミも、見えるわけか」

886 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:41:16

眼鏡の奥の目が、値踏みするように細められた。
「見えるよ。それは保証する」
勝手に師匠に保証されても困るが、どうやら霊感のことを言っているらしいのは分かった。
それぞれが手に持ったコーヒーのカップが空になる間、僕は一応の説明を受けた。
目の前の男性は小川調査事務所の所長、小川さん。たった一人の所員でもある。
「見ての通りの零細興信所だ。下請けの下請けみたいな仕事ばかり回ってくる社会のゴミ溜め」
とは小川さん本人の談。
この小川さんは師匠と浅からぬ関係にあると推測される黒谷という僕と同じ大学の先輩と親戚関係にあるらしい。
その黒谷が、小川調査事務所に持ち込まれた仕事の中でも荒事関係のものを時々手伝わされていたらしいのだが、ある時から黒谷に紹介された師匠がそのバイトに加わるようになったのだそうだ。
「荒事に?」
そう訊くと、二人とも笑っていた。
「オバケだよ」
小川さんがカップを近くのデスクに置いてハンカチで口の周りを拭いた。
興信所の仕事は、おもに信用調査。法人の財産や運営実態を調べたり、個人の素行調査や浮気調査。
それから警察には見つけられない人捜し。
僕の貧困なイメージでは、結婚相手やその親類のことを近所に聞き込んで回るコート姿の男性が一番に浮かんでくる。

887 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:48:03

様々な内容の依頼が、半ばダメ元で持ち込まれてくる中で、当然重犯罪に絡むことは受けられないし(念のため聞き直すと、めんどくさそうに『うん、軽も駄目だ』と小川さんは言った。この辺が零細の悲哀なのかも知れない)、
それから写真を見せて「この猫がうちの花壇を荒らすから懲らしめてくれ」といった、しようもない仕事も基本的には受けない。
興信所を信用せず、最低限の情報さえくれない依頼人も多い。中には連絡先さえ教えてくれない依頼人もいたそうだ。「必要があればこちらから連絡をとる」と言って。そういうときは丁重にお帰りいただくしかない。
「それから、依頼内容が不可解なケース」
小川さんは『お手上げ』というようにおどけたポーズを取り、胸のポケットを探る。
「五年前に死んだはずの父が、生前親しかった友人たちの前に姿を見せてお金の無心をして回ったらしいけれど、どうして娘の私のところへ来てくれないのか? 父にもう一度会いたい。捜してほしい。……なんて、知るかよ!
 戸籍抄本取って、『確かに死んでますから、ご希望には沿わない結果になって申し訳ありません』って言って基本料金だけ貰って業務完了だよ。一日も掛らない仕事だ。楽だけど割に合わないね」
煙草に火をつけて、深く息を吐く。
「それを、親子の再会まではさせられないが、死んでいる父がどうして金の無心をしに迷い出てきたのかを説明できるのが、こいつってわけだ」
師匠は涼しい顔でカップを傾ける。
「こんな不可能ケースで成功報酬までぶんどれるんだから、特殊な技能と言わざるを得ないな」
やがてそうした非常識な依頼が大手の興信所をたらい廻しになった挙句、小川調査事務所に持ち込まれることが多くなった。
今では「オバケならあそこ」と近隣の業界内では密かに陰口を叩かれているそうだ。

888 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:49:39

「オバケ」はそうした不可解なケースの符牒だ。
「それでも、こんな貧乏事務所には仕事を回してもらえるだけでもありがたい話だ」
「でも最近全然お声が掛らなかったんだけど」
師匠が不服そうに言う。
それで得られるバイト代をあてにしていたから、あの無残な生活費の困窮があったのか。
「ボクとしては、普通の依頼ばかりで安心してたがね。そんな依頼ばかりになったら看板を下ろすよ」
それで、事務所を譲って引退だ。
そう言って、師匠を指さす。
師匠は気のないそぶりで三人のカップを持って、流しのあるらしい隣の部屋へ消えていった。
電話が鳴る。
小川さんが自分のデスクに回って取る。
他のデスクの電話機は鳴っていなかった。ただの飾りらしい。他のデスクにしても所員が所長一人ではいらないだろうに。依頼人の前で見栄を張りたいのだろうか。
小川さんは電話の相手に随分へりくだった口調で応対し、ペコペコ謝るようにして電話を切った。
そして僕の視線に気づいて、声を出さずに唇をゆっくりと動かす。
ヤ・ク・ザ
その三文字に見えた。からかわれているのかも知れない。
「依頼人は?」
戻ってきた師匠に訊かれ、小川さんは腕時計を見る。
「もうそろそろ約束の時間だ」
師匠が小川さんのヨレヨレのネクタイを指さし、直させる。

889 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:52:38

それから十分ほどして事務所のドアが開いた。
「タカヤ総合リサーチから言われて来たんだけど」
とその女性は言った。
その瞬間だ。
ドアと彼女の足元の隙間から、何か小さいものが滑り込むように入ってくるのが見えた。
野良猫だ。
そう思って訪問者そっちのけで部屋の隅をキョロキョロしていたが、どこに隠れたのか見つからない。
「どうぞ」と小川さんは来客用の椅子を示し、師匠に目配せして二人でその向かいの椅子に座る。
僕は空いているデスクで仕事をするふりをしながら、横目でその様子を見ていた。
「どうしてこんな所まで足を運ばなくてはならなかったか、説明して」
依頼内容を口にする前に、女性は苛立った口調でそう言った。
小川さんが「依頼内容によっては動ける人員がたまたまいないということもありますし」と、彼女がここに来るまでに断られたであろう別の興信所の弁解を、低姿勢で繰り返す。
ヨコヤマ、と名乗ったその依頼人は「もういい」と吐き捨てるように言って、膝に抱いていた自分の鞄を探りはじめた。
僕は依頼人の横顔に何か言葉にしにくい異様さを感じていた。
三十代半ばのように見える彼女は、身につけている服こそ当たり障りのない地味な印象のスーツだったが、その化粧気の薄い顔は嫌に青白く、勘気の強さを際立たせているようだった。
そして何より、後ろで束ねた髪の毛の一部が一筋だけ顔に垂れて、それが頬に張り付いているのが彼女の異常さを物語っていた。

890 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/06(土) 23:55:36

単に髪の毛の身だしなみの問題ではない。気付かないはずはないのに、横顔に垂れた髪の毛を貼り付けたままそれを直そうとしない、彼女の心理の停滞が問題なのだった。
内心、めんどくさそうなのが来やがったと思っているに違いないのに、それを全く表情に出さない小川さんはさすがプロだと変な感心をしてしまう。
「これよ」
依頼人は鞄から布のようなものを取り出してテーブルに置いた。
ベビー服のようだった。
「私のお付き合いしている男性の車に、これがあったのよ」
「と、言いますと?」
「鈍いわね。どうして分からないの」
依頼人はそう言ってなじると、鞄の口を乱暴に閉じる。
「あの人は、私には独身だ、未婚だなんて言っておいて、子どもがいたってことよ。許せることではないでしょ」
「はあ。これはその方から借りたんですか」
「そんなわけないでしょ!」
黙って取ってきたわけだ。
だいたいどういう話か分かってしまったが、これでは、仮に身辺調査の依頼を受けたとしても、彼女がそうした疑惑を持った事実も相手方に筒抜けになってしまった可能性が高い。
素人考えだが、彼女のその軽率な行動の時点で依頼を拒否する理由としては十分な気がする。
「で、どうされたいんです」
依頼人は小川さんを睨みつけるようにしながら、その男性と子どもの関係を確認するようにと言った。
依頼というよりまるで命令だ。僕は小川さんがいつ切れて、この勘違いした女を事務所から蹴りだすかと思ってハラハラしていた。

892 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:01:26

ふいに、動くものの気配を感じてあたりを見回す。
そう言えば野良猫はどうしただろう。
僕は目立たないように自然に振舞いながら席を立って猫を探した。
デスクの下に屈んで覗き込んだとき、暗がりに二つの光を見つけた。
いた。
でも捕まえようとするとちょっとした騒ぎになるのは目に見えていたので、この噛み合わない会談が終わるまで待つことにした。
「そうですね。当事務所の規定では、このくらいの料金なんですけれど、見えますか? 一日当たりの基本料金がこちらで……」
ラミネート加工された料金表らしきものを睨んで、「高いわね。どうせこれに必要経費とか言って喫茶店のコーヒー代とか入ってくるんでしょ」
そう言えば依頼人に飲み物も出してないな。師匠が同じ席についてしまっているので、お茶くみは僕の役回りなのだろうかと気を揉んでいると、依頼人が苛々した口調で「これでいい」と料金表を叩くのが見えた。
その時、気持ちの悪い感覚に襲われた。
すぐそばのやりとりが遠退いたような感じ。空虚で、中身のない感じ。
これは一体何だ。
自分の呼吸音だけが大きくなる。
パクパクと依頼人の口が動く。
言葉がよく聞こえない。
こういう時は、なにか見落としていることがある。
早く気づかなくてはならない。
頭が回転する。
分かった。
師匠が呼ばれた理由がない。
ここまでは、依頼人の人となりこそエキセントリックだが、依頼内容はありふれたもののようだ。

894 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:08:19

これでは、「オバケ」専門の加奈子さんに仕事が回されてきた意味がない。
「どうなの。いつまでに結果を出せるの」
依頼人がもうすでに契約が完了したような物言いをしているのが聞こえた。
「こちらのスケジュールも確認してみませんと、そちらの希望に添えるかどうかもまだ……」
そう言う小川さんの袖を師匠が引いているのが目に入った。
そして「少々お待ち下さい」と二人して立ち上がる。
一番離れた奥のデスクに行き、何かのファイルを二人で覗き込む。
広げたファイルなど見ていないことは目の動きで分かる。
僕もそちらに近づく。
師匠が声をひそめる。
「受けない方がいい」
「どうしてだ」
「あの女は嘘をついている」
「どういうことだ」
「ベビー服に微かに血を拭ったような跡がある」
ゾクリとした。
「それに、見えた」
「なにが」
「ベビー服の中身。ここに、来ている。あの女についてきた」
師匠が僕の顔を見た。
すぐに思い当たる。
野良猫ではなかったということか。
もうデスクの下は覗けそうにない。
「何を企んでいるのかわからないけど、第三者に『発見』させるつもりかも知れない。とにかく、関わらない方がいい」

896 依頼 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:10:47

小川さんはじっと師匠の横顔を見つめた後、「わかった」と言った。
「あとはまかせろ」
小川さんはイライラと足を動かしながら椅子に座っている依頼人の元へ一人で戻って行った。

依頼人が喚きながら去って行った後、ようやく静かになった事務所で僕らは息をついた。
「警察へは?」
師匠がデスクに腰を乗っける。
「あとで、匿名で情報提供しておく」
小川さんが疲れたような声を出した。そして煙草に火をつけながら誰にともなく訊く。
「赤ん坊は? まだいるのか」
師匠が視線を僕に迂回させる。
「ついて、出ていきました。一瞬だったけど、たぶん」
ふぅ、と煙を吐き出して小川さんは胸の前で十字を切る真似をする。
依頼人にここを紹介したタカヤ総合リサーチという興信所は、元々小川さんが所属していたことがあるらしく、よくこんな仕事を回してくれるのだそうだ。
そのタカヤ総合リサーチから電話が入った。
小川さんが明るい声でやりとりをしたあと、受話器を置く。
「オバケっぽくないケースだったけど、市原女子の第六感が働いたんだと」
市原さんという名物事務員がいるそうだ。聞いたところによると世話好きなオバサンという印象。
「市原さん、ファインプレーだったな」
師匠がおかしげに言った。

898 依頼 ラスト ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:14:39

小川さんが財布を取り出して千円札を何枚か師匠の胸元に近づける。
「今日は悪かったな。足代だ。血色が悪いぞ。ちゃんと食え」
「ありがとう」
師匠は無造作にそれを仕舞う。
「バイトする気があるなら、名刺を作っといてあげるよ」
おもいきり不定期だけど。
そう言って小川さんは案外真面目な顔で握手を求めてきた。
僕はその手を握る。
「下請けの下請けのバイトの助手だ」
その横で師匠が手を叩いてそんなことを言いながらやけにはしゃいでたのをよく覚えている。



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携帯電話

247 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:26:20

大学二回生の夏だった。俺は凶悪な日差しが照りつける中を歩いて学食に向かっていた。
アスファルトが靴の裏に張り付くような感じがする。いくつかのグループが入口のあたりにたむろしているのを横目で見ながらふと立ち止まる。
蝉がうるさい。外はこんなに暑いのに、どうして彼らは中に入らないのだろうと不思議に思う。
学食のある二階に上り、セルフサービスで適当に安いものを選んでからキョロキョロとあたりを見回すと、知っている顔があった。
「暑いですね」
カレーを食べているその人の向かいに座る。大学院生であり、オカルト道の師匠でもあるその人はたいていこの窓際の席に座っている。指定席というわけでもないのに、多少混んでいても不思議とこの席は空いていることが多い。
まるで彼が席に着くのを待っているように。
「ここはクーラーが効いてる」
ぼそりと無愛想な返事が返ってきた。
それからまた黙々と食べる。
「携帯の番号教えてください」
「なぜか」
PHSを水に落してしまったからだった。アドレスが死んだので、手書きのメモ帳などに残っていた番号は問題なかったが、そうでないものは新たに番号を訊き直さなければならなかった。
師匠の場合、家の番号はメモしてあったが、携帯の方はPHSにしか入っていなかったのだった。
「ジェネレーションギャップだな」
師匠は携帯を操作して、自分の番号を表示させてからこちらに向ける。
「なんですか」

248 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:29:45

「携帯世代ならではの悲劇だってことだよ。僕みたいな旧世代人は絶対にメモをとってるし、よくかける番号なら暗記してる」
そう言って、いくつかの名前と番号を諳んじてみせた。
それはいいですから、ディスプレイを揺らさないでください。今打ち込んでるんで。
ワン切りしてくれればすぐ済むのに、とぶつぶつ言いながらも登録を終え、俺は昼飯の続きにとりかかる。
海藻サラダに手をつけ始めたあたりで、おととい体験した携帯電話にまつわる出来事をふと思い出し、師匠はどう思うのか訊いてみたくなった。
「怪談じみた話なんですが」
カレーを食べ終わり、麦茶を片手に窓の外を見ていた師匠がぴくりと反応する。
「聞こうか」

その日も暑い盛りだった。午前中の講義のあと、俺はキャンパスの北にある学部棟に向かった。研究室が左右に立ち並び昼でも薄暗い廊下を抜けて、普段はあまり寄りつかない自分の所属している研究室のドアを開けた。
中には三回生の先輩ばかり三人がテーブルを囲んでぐったりしている。
翌週に企画している研究室のコンパの打ち合わせで集まることになっていたのだが、中心人物の三回生の先輩が来られなくなったとかで、だらだらしていたのだそうだ。
「いいじゃん、もう適当で」「うん。芝でいいよ、芝で」
芝というのは「芝コン」と呼ばれるこの大学伝統のコンパの形式である。キャンパス内のいたるところに売るほどある芝生で、ただ飲み食いするだけのコンパだ。
決定っぽいので黒板に「芝コン」とチョークで書きつける。その横に「いつものとこで」と追加。

250 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:34:00

もう用事はなくなったが、俺も席につくとテーブルの上にあった団扇で顔を仰ぎながら、なんとなくぼーっとしていた。
「なあ、さっきから気になってたけど、吉田さぁ。顔色悪くないか」
先輩の一人がそう言ったので、俺も吉田さんの顔を見る。
そう言えばさっきから一言も発していない。
吉田さんは身を起し、溜息をついて強張った表情を浮かべた。
「俺さぁ」
そこで言葉が途切れた。自然にみんな注目する。
「この前、夜に家で一人でいる時、変な電話があったんだよ」
変、とは言ってもそれは良く知っている中学時代の友人からの電話だったそうだ。
「安本ってやつなんだけど、今でも地元に帰ったらよく遊んでるんだけどよ。そいつがいきなり電話してきて、用もないのにダラダラくだらない長話を始めてさぁ……」
最初は適当に付き合ってた吉田さんもだんだんとイライラしてきて「用事がないならもう切るぞ」と言ったのだそうだ。
すると相手は急に押し黙り、やがて震えるような声色でぼそぼそと語りだした。
それは中学時代に流行った他愛のない遊びのことだったそうだ。
『覚えてるよな?』
掠れたような声でそう訊いてきた相手に、気味が悪くなった吉田さんは「だったらなんだよ」と言って電話を切ったとのだいう。
そんなことがあった三日後、安本というその友人が死んだという連絡が共通の友人からあった。
「何日か前から行方不明だったらしいんだけど、バイク事故でさ、山の中でガードレールを乗り越えて谷に落ちてたのを発見されたっていうんだよ。俺、葬式に出てさ、家族から詳しく聞いたんだけど、安本が俺に電話してきた日って、事故のあった次の日らしいんだわ」

252 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:36:28

ゾクッとした。ここまでニヤニヤしながら聞いていた他の先輩二人も気味の悪そうな顔をしている。
「谷に落ちて身動きできない状態で携帯からあんな電話を掛けてきたのかと思って、気持ち悪くなったんだけど、よく聞いてみると、安本のやつ、即死だったんだって」
タバコを持つ手がぶるぶると震えている。
室温が下がったような嫌な感じに反応して、他の先輩たちがおどけた声を出す。
「またまたぁ」
「ベタなんだよ」
吉田さんはムッとして「ホントだって。ダチが死んだのをネタにするかよ」と声を荒げた。
「落ち着けって、噂してると本当に出るって言うよ」
冗談で済ませようとする二人の先輩と、吉田さんとの噛み合わない言葉の応酬があった末、なんだか白けたような空気が漂い始めた。
「トイレ」
と言って吉田さんが席を立った。俺もそれに続き、研究室を出る。
長い廊下を通り、修理中の立札が掛かりっぱなしのトイレの前を過ぎて、階段を二つ降りたフロアのトイレに入る。
並んで用を足していると、吉田さんがポツリと言った。
「紫の鏡って話あるだろ」
いきなりで驚いたが、確か二十歳になるまで覚えていたら死ぬとかなんとかいう呪いの言葉だったはずだ。もちろん、それで死んだという人を聞いたことがない。
「安本が、『覚えてるよな』って訊いてきたのは、その紫の鏡みたいなヤツなんだよ。中学時代にメチャメチャ流行ってな、二十一歳の誕生日まで覚えてたら死ぬっていう、まあ紫の鏡の別バージョンみたいな噂だな」
「え、先輩はまだですよね。二十一」
「嫌なやつだろ。わざわざ思い出させやがって。そりゃ信じてるわけじゃないけど、気分悪いし」

253 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:42:09

照明のついていないトイレの薄暗い壁に声が反響する。
学部等の中でも研究室の並ぶ階はいつも閑散としていて、昼間でも薄気味悪い雰囲気だ。
「その、安本さんの誕生日はいつなんです」
恐る恐る訊いた。
吉田さんは手を洗ったあと、蛇口をキュッと締めて小さな声で言った。
「二ヶ月以上前」
俺はその言葉を口の中で繰り返し、それが持つ意味を考える。
「なんでだろうなぁ」と呟きながらトイレを出る先輩に続いて、俺も歩き出す。
考えても分からなかった。
研究室に戻ると先輩二人がテーブルにもたれてだらしない格好をしている。
「結局、芝コン、時間どうする?」
片方の先輩が俯いたまま言う。
「七時とかでいいんじゃない」ともう一人が返した時だった。
室内にくぐもったような電子音が響いた。
「あ、携帯。誰」
思わず自分のポケットを探っていると、吉田さんが「俺のっぽい」と言って壁際に置いてあったリュックサックを開けた。
音が大きくなる。
すぐ電話に出る様子だったのに、携帯のディスプレイを見つめたまま吉田さんは固まった。
「え?」
絶句したあと、「ヤスモトだ……」と抑揚のない声で呟いてから携帯を耳にあてる。「もしもし」と普通に応答したあと、少し置いて、
「誰だ、お前」
吉田さんは強い口調で言った。そして反応を待ったが、向こうからは何も言ってこないようだった。

254 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:44:52

「黙ってないで何か言えよ。誰かイタズラしてんのかよ。おい」
吉田さんは泣きそうな声になってそんな言葉を繰り返した。
その声だけが研究室の壁に、天井に反響する。
俺は傍らで固唾を飲んで見守ることしかできない。
「どこから掛けてるんだ?」
そう言ったあと、吉田さんは「シッ」と人差し指を口にあて、こちらをチラリと見た。自然、物音を立てないようにみんな動きを止めた。
耳に携帯を押し当て、目が伏せられたままゆっくりと動く。
「……木の下に、いるのか?」
震える声でそう言ったあと、吉田さんは携帯に向って「もしもし、もしもし」と繰り返した。
切れたらしい。
急に静かになる。
呆然と立ち尽くす吉田さんに、別の先輩が腫れ物に触るように話しかける。
「誰だったんだ?」
「……分かんねぇ。なにも喋らなかった」
そう言ったあと、血の気の引いたような顔をして吉田さんはリュックサックを担ぐと「帰る」と呟いて研究室を出て行った。
その背中を見送ったあと、先輩の一人がぼそりと「あいつ、大丈夫かな」と言った。

俺の話をじっと聞いていた師匠が「それで?」と目で訴えた。
俺もトレーの上の皿をすべて空にして、じっくりと生ぬるいお茶を飲んでいる。
「それで、終わりですよ。あれから吉田さんには会ってません」
師匠は二、三度首を左右に振ったあと、変な笑顔を浮かべた。
「それで、どう思った?」
「どうって、……わかりません」

256 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:47:18

吉田さんに電話を掛けてきたのは本当に安本という死んだはずの友人だったのか。事故死を知る前の電話と、研究室に掛ってきた電話、そのどちらもが、あるいは、そのどちらかが。
どちらにせよ怪談じみていて、夜に聞けばもっと雰囲気が出たかも知れない。
二十一歳までに忘れないと死ぬというその呪いの言葉は結局吉田さんからは聞かされていない。そのこと自体が、吉田さんの抱いている畏れを如実に表しているような気がする。
俺はまだそのころ、二十歳だったから。
「僕なら、中学時代の友人みんなに電話するね。『安本からの電話には出るな』って」
師匠は笑いながらそう言う。
そして一転、真面目な顔になり、声をひそめる。
「知りたいか。なにがあったのか」
身を乗り出して、返す。
「分かるんですか」
「研究室のは、ね」
こういうことだ、と言って師匠は話し始めた。
「ヒントはトイレに行って帰ってきた直後に電話が掛ってきたって所だよ」
「それがどうしたんです」
「その当事者の吉田先輩と、語り手である君が揃って研究室から離れている。そして向かったトイレはその階のものが以前から故障中で使えないから、二つ下の階まで行かなくてはならなかった。
ということは、研究室のリュックサックに残された携帯電話になにかイタズラするのに十分な時間が見込まれるってことだ」
イタズラ?
どういうことだろう。

258 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:50:15

「思うに、その吉田先輩は普段からよくリュックサックに携帯電話を入れているんだろう。それを知っていた他の二人の先輩が、君たち二人が研究室を出たあと、すぐにその携帯を取り出す。安本という死んだはずの友人から電話を掛けさせる細工をするためだ」
「どうやって?」
「こうだ」
師匠は俺のPHSを奪い取り、勝手にいじり始めた。そして机の上に置くと今度は自分の携帯を手に取る。
俺のPHSに着信。
ディスプレイには「安本何某」の文字。
唖然とした。
「まあ、卵を立てた後ではくだらない話だ」
師匠は申し訳なさそうに携帯を仕舞う。
「まず吉田先輩の携帯のアドレスから安本氏のフルネームを確認する。それからそのアドレス中の誰かの名前を安本氏のものに変える。あとはリュックサックに戻すだけ。できればその誰かは吉田先輩にいつ電話してきてもおかしくない友人が望ましい。
『時限爆弾式死者からの電話』だね。ただ、タイミングよくトイレの直後に掛かってきたことと、無言電話だったことを併せて考えると『安本何某』にされたその友人に電話をしてイタズラに加担させたと考えるのが妥当だろう。
ということは、その相手は同じ研究室の共通の友人である可能性が高い」
師匠はつまらなそうに続ける。
「結局、ディスプレイに表示された名前だけで相手を確認してるからそんなイタズラに引っ掛かるんだよ。普通は番号も一緒に表示されると思うけど、いつもの番号と違うことに気付かないなんてのは旧世代人の僕には理解できないな」
まだ言っている。
しかし、どうにもそれがすべてのようだった。

259 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:52:52

俺もすっかり醒めてしまい、あんなに薄気味の悪かった出来事が酷く滑稽なものとしてしか脳裏に再生されなくなった。
吉田さんがその時すでに死んでいたはずの安本さんと電話で話をしたという一件も、なんだか日付の勘違いかなにかで片が付きそうな気がしてきた。
空調の効いた学食でもう少し涼んでいこうと思って、レシートに表示されているの総カロリー量をぼんやり眺めていると、窓の外に目をやっていた師匠が乱暴にお茶のコップをテーブルに置いた音がした。
見る見る顔が険しくなっていく。
「そんな……」
ぼそりと言って、眼球が何かを思案するようにゆるゆると動く。
俺はなにがあったのかさっぱり分からず、じっとその様子を見ていた。
「おかしいぞ」
「なにがですか」
「さっきの話だ」
ドキッとした。まだなにかあるのか。もう終わった話のはずなのに。
「勘違いをしていたかも知れない」
師匠はタン、タン、と人差し指の爪でテーブルを叩きながら眉間に皺を寄せた。
「その吉田先輩は、研究室にいるときに掛かってきた『安本氏』からの無言電話に、どこから掛けてきているのか問いただしたあと、なんて言った?」
「え? ……だから、『木の下にいるのか』って」
「それはどういう意味だ」
「さあ。そのあと本人、すぐ帰っちゃいましたから」
師匠は目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
「その、吉田先輩は、相手はなにも喋らなかったと言ったな? ということは、言葉以外のなんらかの情報でそう思ったわけだ」
目を開けて、少し顔を俯ける。

264 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 00:59:33

「安本氏の死因はバイク事故。ガードレールを乗り越えて谷に転落して死んだって話だな。そこから例えば霊魂が木の下にいるというような連想が湧くだろうか。いや、どうもしっくりこないな。
ということはやはり、あの電話の最中になにか情報を得たということだ。言葉でなければ音だ」
音? 師匠がどうしてそんな所に拘るのか分からず、首を捻る。
「そうだ。音だ。背後の音。例えばダンプカーのバックする警告音、パチンコ屋の騒々しさ、クリアなステレオの音…… どこから電話しているのかある程度分かってしまうことがあるだろう」
「それはまあ、ありますよね」
「じゃあ、木の下の音って、なんだと思う」
言われて、想像してみる。木の下の音? なんだろう。木の葉が風に揺れる音? それだけ聞かされても、分かるものだろうか。
師匠は笑うと、口元に指を立て、目を閉じた。静かにして、耳を澄ませ、と暗に言っているらしい。
目を開けたまま、周囲の音に神経を集中する。ざわざわした学食の中の雑音が大きくなる。
それでもじっと聞き耳を立てているとそれらがだんだんと遠くへ離れていき、逆に俺の耳は遠くの控えめな音を拾い始めた。
……じわじわじわじわじわじわじわじわ……
テーブルの向かいにいる師匠の姿が遠く、小さくなっていく錯覚に襲われる。
「蝉ですね」
師匠は目を開けて、頷いた。
「この声だけはすぐにそれと分かる。こうして窓を閉めた建物の二階でも聞こえるけど、実際木の下に行けば、凄い音量だ。木の下に限らず、木のそばでもいいけど、そこはただ単に言葉の選択の問題だな。
ともかく、吉田先輩はその蝉の声から相手が今どこにいるのかを連想したわけだ。ところが、だ」
師匠は急に立ち上がった。

266 本当にあった怖い名無し
2009/06/07(日) 01:03:53

「ちょっとここで待ってろ」
「え?」
手の平を下に向けて、座ってろのジェスチャーをしてから師匠は踵を返すと学食の出口に向かって歩いていった。
取り残された俺はその背中を見ながら動けないでいた。
どうしたんだろう。
ただ待っていろという指示だが、話が見えないので気持ちが悪い。お茶を汲みに行っても駄目だろうか。
そう思って何度も出入口のあたりを振り返っていると、いきなり自分のPHSに着信があった。
心臓に悪い。
師匠からだった。軽く上半身が跳ねてしまった照れ隠しに、舌打ちをしながら鷹揚な態度で通話ボタンを押す。
「はい」
「……」
相手は無言だった。
え? 師匠だよな? 番号は確認してないけど。
背筋を嫌な感じの冷たさが走る。
「もしもし?」
「……ああ。聞こえるか」
「なんだ。おどかさないでくださいよ」
「僕の声が聞こえるんだな」
やけに小声で喋っている。
「はい。聞こえますよ」
「今、どこにいるか分かるか?」
「さあ? 学食の近くでしょう」
席を立った時間からいってもそう離れてはいまい。
「じゃあ、僕の席に移動して、窓の外を見てみて」
言われた通り立ち上がって席を移る。そしてPHSを耳にあてたままガラス越しに窓の下を見た。
すぐに分かった。師匠が建物から少し離れた場所にある並木の下に立って、手を振っている。
思わず手を振り返す。
「もう一度聞く。僕は、今、どこにいる」

270 携帯電話 ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 01:09:41

なんだ? やけに意味ありげだが。
「だから、そこの木の下でしょう」
答えながら、何故か分からないが、嫌な予感らしきものが首をもたげてきた。
振られていた師匠の手が下がり、なにかを問いかけるポーズに変わる。
「その目で見るまで、どうして分からなかったんだ?」
PHSが耳元に、冷たい声を流し込んでくる。
ガラス窓の向こうに、師匠が寄り添っている大きな木。この学食でも遠くに聞こえている蝉の声は、きっとそこからも発されているだろう。
近くにいれば、耳をなぶるような暴力的な音量で。
ようやく、俺は気付いた。PHSから、その蝉の声が聞こえてこないことに。
「前になにかの本で読んだことがあったんだけど、どうやら携帯電話は蝉の声を拾わないってのは本当らしいね」
確かに聞こえない。ただ、なんとも言えないざわざわした感じが師匠の声の背後にしているだけだ。
「吉田先輩が、聞こえるはずのない蝉の声を聞いたのだとすると、その安本氏の名前で着信のあった電話はおかしいな」
昼ひなかにゾクゾクと身体の中から寒気が湧いてくるような気がした。
「他の二人の先輩に、僕がさっき推理したようなイタズラをしたのか確認してみる必要がある。もし、イタズラではなく、本当に安本氏の番号からの着信だったなら、吉田先輩から、その覚えていたら死ぬって言葉は、絶対に聞くな」
俺は、はい、と言った。
ガラス窓の向こうで師匠は頷くと、こちらを指差しながら「片付けといて」と言って携帯を切った。そしてどこかへ去って行く。
学食の中、二つ並んだトレーの前に引き戻された俺は、腕に立った鳥肌の跡を半ば無意識にさすっていた。

結局、後日会った二人の先輩はそんなイタズラはしてないと言った。嘘をついている様子はなかった。

272 携帯電話 ラスト ◆oJUBn2VTGE
2009/06/07(日) 01:11:59

吉田さんにも確認したが、本当に安本という死んだはずの友人の番号からだったらしい。けれどそれから一度もその番号からの着信はなかったそうだ。あるはずはないのだ。その携帯電話はバイク事故の時に、本人の頭と一緒に粉々になっていたのだから。
芝コンには来なかったけれど、吉田さんも日が経つにつれていつもの調子を取り戻し、やがて無事に二十一歳の誕生日を迎えたようだった。
その中学時代に流行ったという呪いの言葉が、やはりただの噂話の一つに過ぎないということだったのか、それとも二十一回目の誕生日を迎えた日にたまたまそれを忘れていたのか、確認はしていない。
蝉の声について、師匠の言葉に興味を持ったので自分なりに調べてみたが、種類などによって周波数にバラつきがあり、携帯電話で拾うこともあるらしい。
自分で試した時には聞こえなかったけれど。
ただある日の夜、研究室で一緒になる機会があり、「あの時、本当に蝉の声を聞いたんですか」と訊ねると、吉田さんは「どうして知ってるんだ」と驚いた顔をしてから続けた。「でも聞こえるはずはないんだよ」と。
割と有名な話なのかと思い、俺は蝉の声が携帯から聞こえることもあるということを説明した。
しかし吉田さんはそもそも周波数の高すぎる音が携帯電話を通らないという話自体初耳なようで、俺の話にやたら感心していた。
「それは知らなかった」
「じゃあどうして聞こえるはずがないなんて思ったんですか」
「だって」と吉田さんは言葉を切ってから、何かを思い出そうとするように指をくるくると回した。
そして耳に手の平を当てる真似をして、「これこれ」と言った。
つられて俺も耳を澄ました。
研究室の窓から、夜の濃密な空気が流れてきている。
その中に、初秋の物悲しい蝉の声が漂う。泣いているような、笑っているような。
「あんな昼間に、聞こえるはずないだろう?」
吉田さんは目に見えない何かを畏れるように、そっと呟いた。

ヒグラシって、いうんだっけ……



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賭け

323 :賭け ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:31:13 ID:kR+moc+u0
大学三回生の春。すでに大学のあらゆる講義に出席する気を失っていた俺は、それまで以上にバイトとギャンブルを生活の中心に据えていった。
ギャンブルと言っても、競艇や競輪などのオッサン向けのものではない。それらよりも情報を得やすく、学生仲間の関心も高かった競馬。そして手軽に出来る麻雀やパチンコだ。
特にパチンコは、イベントのある日に何故か風邪を引いてバイトを急遽休まざるを得なくなるという実にハタ迷惑な体質を発揮して、バイト仲間に見つからないようにコソコソと通ったりしたものだった。
ある日、足が遠ざかりつつあったオカルト道の師匠に道端で会った。駅の近くの路上だった。
夕方、駅前で油ソバを腹に入れ、さあこれからもうひと勝負、とやる気が湧いてきた時だ。
「初任給が出たよ」と嬉しそうに話す師匠を、気がつくと悪の道に誘ってしまっていた。
「増やしましょう、それを」
有史以来、人類が絶えることなく選択を誤り続けた賭けである。
師匠は最初固辞していたが、俺が札束の詰まった財布を見せると興味を示してきた。
そのころ俺はやけにツイていて、かなりの泡銭を抱えていたのだ。それまでも何度か師匠をパチンコ屋に誘ったことはあったが取り合ってくれたことはなかった。
それが急に乗り気になったということは、儲け話に乗ったということだと単純に解釈したのだが、その複雑な表情からするとなにか別の考えがあってのことかも知れなかった。
ともかく師匠が一緒に来てくれるというので俺は嬉しくなり、とっておきの店に案内した。
駅前からは少し離れるけれどかなりの設置台数を誇る大型店で、その同じチェーン店の中でも優良店として知られる店だった。

324 :賭け ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:34:29 ID:kR+moc+u0
まったくの初心者である師匠に三店方式の仕組みなどを説明しながら歩くこと十分。
荘厳さすら漂わせる城のような店構えに「儲け過ぎだろう」と眉間に皺を寄せるので、それでも競馬やら宝くじなんかの公営ギャンブルに比べて控除率が低く、立ち回り次第で勝てる可能性が高いのだと必死で説得すると、
「わかったわかった」と煩そうに入り口へ足を向けてくれた。
自動ドアが開くと、独特の騒音が耳に襲い掛かってくる。
俺などはこれを聞くと得体の知れない闘志が湧いてくるのだが師匠は不快そうに顔を歪めた。
フロアをしばらく眺めて、カウンターでレシートを交換する客やジェットカウンターの様子を見ながら一通り説明をして、俺は師匠をあるコーナーへと誘った。
パチスロのシマだ。
「パチンコじゃないのか」と言うので、「今はこっちが熱いんス」と親指を立てる。
元々パチンコからこの道に入った俺だったが、そのころはパチスロばかり打っていた。規制緩和だかなんだか知らないが、調子が良い時は一万枚を超えるメダルを獲得できる機種が増えて来たころだった。
メダル一枚二十円の等価交換なら、一日にして二十万円を手に入れることになる。俺の泡銭もその恩恵だった。
中でも古代アステカ文明をモチーフにした台がお気に入りで、それが並んでいるシマを師匠を連れてうろうろしていたのだが、思いのほか客付きが良くて二人並んでは座れない状態だった。
席が離れてしまって素人の師匠一人に打たせるわけにもいかないのでしばらく待っていたが、なかなか空きそうにない。
歯抜けのように一つ飛びに空いている席はあるけれど、その周囲の客はみんな習ったように千円札の束をメダル投入口に挟んでいて、まだまだ打つ気十分のようだった。
「これが熱いんスけど、空きませんねえ」と俺がぼやくと師匠はなにを思ったかツカツカと歯抜けの真ん中で打っている客の所へ歩み寄っていった。

326 :賭け ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:42:51 ID:kR+moc+u0
そして何ごとかその客に話し掛け、一言二言やりとりをしていたがいきなりそのスカジャンを着た若い兄ちゃんにドツかれて後ろへ転びそうになった。
台に向き直ってゲームを続ける兄ちゃんになにか捨て台詞を吐いてから、師匠が戻って来る。
憤然としている。
「そっちに詰めてくれって言ったら怒られた」
俺は吹いた。
素人の発想は凄い。俺だったら絶対思いつかない。
「ちゃんと詰めて座れば二人連れの人でも座れるのに、マナーがなってない」とぶつぶつ言っている師匠を宥める。
パチスロには設定というのものがあって、と説明をしていると端の台が二台続けて空いた。
すぐに飛んで行って台を確保する。
「じゃあ打ちましょう」
正直どっちの台もあまり良い台とは言えなかったが一応師匠にまだマシな方をあてがって実戦を開始した。
最初の千円で師匠は殆ど小役が揃わず、あっという間に交換した五十枚のメダルが無くなる。
「無くなったぞ」
そうですね。これからですよ。
「そうか」
二人並んでペチペチとストップボタンを押していく。
「また無くなったぞ」
そうですね。
いちいちうるせぇな、と思いながら回っているリールのどの辺を狙ってボタンを押せば良いか説明していると、俺の台の方にリーチ目が出現した。
指をさして、白い7の絵柄が二つ重なっていることを興奮気味に捲くし立てる。今度は師匠の方が「うるせぇな」という顔をした。

327 :賭け ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:46:13 ID:kR+moc+u0
俺はじっくりともったいぶって一枚だけメダルを投入し、真ん中、右、左の順番にボタンを押して青い7絵柄を揃えた。
BIGボーナスだ。
派手なBGMとともにジャラジャラと下皿にこぼれ落ちてくるメダルを、師匠が横目で羨ましそうに見ている。
三百枚ほど出たところでボーナスが終わり、さらにメダルを二百枚以上獲得することの出来るCTというオマケに突入するかどうかの分かれ目となる抽選ルーレットがすぐさま始まった。
突入確率は二分の一だ。俺は祈りを込めてリール下部のLEDの高速移動を追いかける。CTに突入してからのボーナス連荘がこの台のキモであり、メダル大量獲得の起爆剤なのだ。だが俺の願いも空しくルーレットはハズレゾーンで停止し、台の音は消えた。
順押しサボテン維持という技を師匠に見せたかったのにと肩を落とすと、その師匠は隣でプッと笑った。なにも知らなくても、なにか駄目だったらしいというのが分かったようだ。
一発台を殴ってから続行する。
それから二人の台はいたって静かなもので、全く当たりそうな気配がなかった。
一万円を溶かしてしまった師匠がだんだんと不機嫌になってきて、他の台をキョロキョロと見始める。
「あっちの台、900回も回してる。そろそろ出るころじゃないか。移ろうかな」
データカウンターを見上げてそう言うのだ。
俺はその瞬間に頭に浮かんだ言葉に思わず吹き出しそうになる。
そして笑いをこらえながら師匠に耳打ちする。
「そういうの、オカルトっていうんですよ」
師匠はきょとんとしている。
なんだかとてもおかしい。
結局二人ともそれから一度も当たらず、それぞれ二万円以上負けてしまった。
最初は自分の負けに腹を立てていたが、やがて師匠に申し訳ないことをしたという気持ちが湧いてきて、店を出た所で頭を下げた。

328 :賭け ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:50:50 ID:kR+moc+u0
「まあ別にいいよ。勉強になったし」
やけに殊勝だ。
「それより……」と急に真剣な顔になって声を落とす。「別の台で2000回も回して当たってなかったのがあったんだけど、あれはどのくらい負けてるんだ」
ざっと計算する。
「七万円くらいです」
その台は俺も気になっていて、帰る前にデータカウンターをチェックしたが、一日単位でも酷い下向きグラフになっていた。ざっと十二、三万円は負けているだろう。それを説明する。
「ずっと負けが続いて借金漬けになっているような人間には……命に届く額だな」
冷酷な口調で師匠は言った。
「最近勝ってるらしいけど、それだけ勝てるってことはそれ以上に負けてる人間がいるってことだな」
当然のことだが、パチンコ・パチスロにのめり込んでいる俺たちのような人間はしばしば都合よくそれを忘れてしまう。愉快ではない部分を突かれて俺は黙った。
「ギャンブル性が上がってハイリスク・ハイリターンになればなるほど客単価があがって得をするのは店側じゃないか。その分、客が割りを喰ってるんだろう。バカバカしいじゃないか」
言われなくても分かってる。いや、分かっているつもりだった。それでも一度大金を掴んでしまうと、また勝てるような気になってしまうのだ。
夜風に吹かれながら店の外を歩いていると、師匠が急に辺りを伺う様な気配を見せ、早足で来た道と逆方向に進みだした。なにかを感じ取ったらしい。
店の裏手側で、普段は殆ど人も通らないような小道があるだけのはず。けれど師匠はなにかに導かれるようにそちらへ迷うことなく向かう。
暗い。そばを通る立体交差道路の影になっていて、いっそう暗さを感じる一角だ。
師匠はその中ほどで地面を見下ろし、立ち止まる。

329 :賭け ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:54:48 ID:kR+moc+u0
俺も並んでその道路の一点を見る。
暗くてよく分からないが、黒い染みがアスファルトにこびりついているようだ。
俺はハッとして頭上に目をやる。城壁のような店の外壁が視界を覆い、その上は夜空で途切れている。
あの上は確か駐車場の屋上だ。
いつだったか、つい最近飛び降り自殺をした人の噂を聞いた。店で負けた客が、まだ午前中だというのに屋上からこの狭い道路に身を投げて死んだと。
ここがその現場か。この染みは、未だ取れない血なのだろうか。
嫌なものを見てしまった俺は、心がズンと重くなった気がした。
「死を選ぶということは、賭けだ」
師匠がこちらを向く。
「借金でどんなに首が回らなかろうが、死んでしまえばその苦しみから開放されるはず、という無意識の賭け」
「賭け」
オウムのように復唱する。
「そんな人間は、天国やあの世と呼ばれるようなところに行きたいと思って死ぬのだろうか」
少し考える。違うような気がする。
「パスカルの賭けという言葉がある」
と、師匠は言った。
神が存在している方に賭けるべきか、存在していない方に賭けるべきかという問いに対して、科学者としても名高いフランス人、パスカルはこう答える。
神の存在に賭ければ、勝った時に得られる祝福という名の喜びは無限大であり、負けた場合、すなわち死後が虚無であったとしてもそれは誰にも等しく訪れる運命である。
それに対し、神の非存在に賭けたなら、勝利とはすなわち死後の虚無を認めることであり、敗北とは祝福という名の喜びを放棄することに他ならない。

330 :賭け ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:59:55 ID:kR+moc+u0
神の存在に賭け、その意に適うような生き方をすることは苦痛であるかも知れないが、勝てばそれを補って余りある幸福を得られ、例え負けてもその苦痛は消滅する。
非存在に賭け、現世の利益だけを追求したとするなら、勝ってもその利益は虚無の中へ消え、負ければ祝福という永遠の幸福を失う。
だから、神の存在に賭けるべきだと。
これを聞いて、科学者らしい合理性だな、と俺は感じた。
「『生き方』としてはその賭け方が正しいかも知れない。でも『死に方』としては、どうだろうか」
パスカルの言う神とは、もちろんキリスト教のそれだろう。自殺を認めていない宗教なのだから、本来その問い自体がナンセンスのような気がする。
「『神』は『死後の世界』と置き換えてもいいだろう。苦しみからの開放という目的のための自殺は、賭けとして合理的か否か」
その問いかけに、さっき師匠自身が言いかけた「そんな人間は、天国やあの世と呼ばれるようなところに行きたいと思って死ぬのだろうか」という言葉が頭にリフレインされる。
すると師匠もまさにその言葉を繰り返した。そして少し間をあけてから続ける。
「死への欲動は、もっと奥深いところからやって来ていると思う。それはあの世に対するイメージが植えつけられる宗教観や固有文化という背景よりも、もっとずっと深い場所だ」
それはどこですか。
思わず問いかける。
師匠は口を開く。
僕らの記憶が始まる前の、真っ暗闇の中からさ。
……
その言葉を聞いてなぜか三半規管が一瞬機能を失ったような感覚があった。
「つまり、自殺するってことは、死後の世界を求めているんじゃなく、消滅を求めているってことですか」

331 :賭け ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 22:02:45 ID:kR+moc+u0
極論だと、その時は感じなかった。毎度毎度、よく師匠の術中に陥るものだと、後にして思う。
「そうだ。だからさっきの問いは、『消滅を求めての自殺は、賭けとして合理的か否か』に置き換えられる」
その時、俺の目は、師匠の背後にいつの間にか現れた青白いものをとらえていた。
俺と向き合っている師匠の後ろには、薄暗い夜の道が延びている以外なにもないはずだったのに、明らかになにかゆらゆらと揺らめくものが存在している。
それが背中越しに見え隠れする。
心臓が冷たくなる。
心を不安にさせる気味の悪い耳鳴りが、頭の内側に響き始める。
師匠の後ろには、アスファルトの染みがあったはず。かすかに人型をしていたような、染みが。
こちらを見ている師匠の耳の後ろに、うっすらとした男の顔が奇妙に歪んだままで揺れながら、ちらりと覗いた。
消滅を求めての自殺は、賭けとして合理的か否かなんて、理屈を捏ね回して考える必要なんてなかった。
俺が見ているものが賭けの結果そのものだからだ。
その中年男性に見える青白い顔は、しかし子どもが泣いているような表情を浮かべている。まるで凍りついたように。
そのアンバランスさがどうしようもなく冒涜的なものに思えて、恐怖心とともに生理的嫌悪感に襲われる。
師匠は後ろを振り返らない。
気づいていないはずはないのに。
また、口を開く。
「僕たちは、その問いの答えを、損得の理論によって導き出そうとはしない。何故なら、観察の結果がそれに代替するからだ」
師匠の顔の後ろに、泣き顔の男の顔が、凍りついたままで頼りなく揺れている。

332 :賭け ラスト ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 22:04:41 ID:kR+moc+u0
「でも、僕たちはその観察の結果を正しく理解しているのだろうか」
気づいていないはずはないのに。
師匠は静かに言葉を紡ぐ。
俺はその声を、息をひそめて聴いている。
「最近、僕は疑うようになっている。『あれ』らは、僕たちが思うような、『僕らが死んだあとの続き』なんかではなく、僕らの想像の及ばない場所から、僕らのような姿形をしてやってくる、まったく別のなにかなのではないかと」
淡々とした声が風のない夜の空気に溶けていく。
その言葉は、いま目に映っている青白く虚ろなものに感じるよりも遥かに深い、原初的な恐怖心の眠る場所を撫でていった。



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喫茶店の話

321 :喫茶店の話 ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:16:05 ID:kR+moc+u0
師匠の部屋のドアを開けるなり、俺は言った。
「い、いました。いました。いましたよ」
師匠は寝起きのような顔で床に広げた新聞を読んでいたが、めんどくさそうに視線を上げる。
「まあ落ち着け。なにがいたんだ。……その前にドア閉めて。さむい」
急いで来たので身体が温まっている今の俺には感じないが、今日はかなり冷え込んでいるらしい。
「いたんですよ」
靴を脱ぎ、ドアを閉めた俺は師匠の前に滑り込むように座った。
「なにが」
「愛想の悪いウエイトレスが」
「へえ、そう」
師匠はまた目を落とし、新聞紙を一枚めくる。
俺は目の前の人間がどうしてこんなに落ち着いていられるのか分からず、苛立ちが足から頭まで駆け回るのを抑えられなかった。
「へえ、そう、って、冷静な振りしても無駄ですよ」
後から考えるとかなり無茶なことを言っていたが、伝えたつもりの情報と相手に伝わった情報の格差のことを考えるゆとりがなかったのも事実だった。
「京介さんのバイト先、見つけたんですよ」
「なに?」
師匠が顔を突き出す。そして「どこだ」と言いながら新聞を畳む。
「だから、喫茶店です。ウエイトレスを……」
説明も半ばで、師匠は凄い勢いで立ち上がり、その場でぐるぐる歩き回り始めた。
「喫茶店と言ったね。どこだ。入ったのか?」
俺はついさっきあったことを説明する。
美味いという評判のラーメン屋を探して街なかを歩いている時に、通り掛かった喫茶店の前で京介さんらしき人を見つけたのだ。

322 :喫茶店の話 ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:18:41 ID:kR+moc+u0
思わず身を隠してそちらを伺うと、店の入り口のそばに置いてある観葉植物に水を遣っているところだった。それも、普段見たことのないスカート姿に、白い前掛けをしている。
フリーターをしている京介さんのバイト先は二つあるらしいのだが、どちらも教えてくれなかった。知ったからといって別に嫌がらせをしに行くわけでもなし、なぜ教えてくれないのか分からなかったが、ずっと気になっていた。
その現場をついに押さえてしまったのだ。
俺はドキドキしながら電信柱の影から様子を見ていると、出入り口のドアが開き、中から客らしき中年の男性が出てきた。
男性は外でジョウロを持っている京介さんに片手を上げて声を掛けた。
京介さんはほんのわずか、そうと言われないと分からない程度に頭を下げてボソリと返事をする。
男性は苦笑するような表情を浮かべて去っていった。やがて京介さんが店の中に消えると、俺はとんでもない秘密を見つけてしまったような気がして逸る気持ちを抑えきれずに師匠の家まで飛んで来たのだった。
そんなことを身振り手振りで説明すると、師匠は目を輝かせて言った。
「僕は子どものころから、こう言われて育ったんだ。『どんなことでも一生懸命やりなさい。人の嫌がるようなことを進んでやりなさい』ってね」
そこで言葉を切り、迷いのない爽やかな笑顔を浮かべる。
「行くぞ。嫌がらせをしに」
これか。
俺はその瞬間にすべてが分かってしまった。
師匠は急に跳ね上がった異様なテンションのまま部屋の中を這いずり始めた。
なにをしているのかと見ている俺の前で、座布団をめくったり部屋の隅の古新聞の束をどかしたりと忙しなく動いている。

323 :喫茶店の話 ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:22:42 ID:kR+moc+u0
そして台所に置いてあった紙で出来た家を取り上げて覗き込み、吐き捨てるようにこう言った。
「こんな時に限っていないなんて!」
俺はそれを聞いて尻の座りが悪くなった。
畳を叩いて悔しがっていた師匠だが、外から雨音が聞こえ始めたのきっかけに何ごとか悪巧みを練るような顔をしていたかと思うと押入れに首を突っ込んだ。
俺は窓辺に立ち、「ええー。傘持ってきてねぇよ」と呟く。
けれどせっかく水を遣ったのに京介さんも間が悪いな、と思うと少し微笑ましかった。
「どうだ、まだ降りそうか」
師匠が押入れからなにか、けったいなものを取り出してきてそう言う。
「さあ、たぶん」
ふん、と頷くとそれを身に着け始める。藁で出来た、身体を覆う服。
蓑だ。
それに笠。
いつの時代の人かと思うような奇態な格好だ。
「いいかい、僕はその店に入るなりこれを脱ぐ。それでビショビショのこれを掛ける場所を店内に探す。
そしたらやっこさんが『困りますお客様』ってやって来るから、おまえは『この店は雨具を掛ける場所もないのか』って怒鳴るんだ」
「嫌です」
「そうか。では一人で演ずるとしよう」
テキパキと蓑笠を身に着け終った師匠は、踊り出さんばかりの足取りでドアに向かう。
「あ、僕の傘、使っていいから」
俺は、この人を止めるべきか、一緒に楽しむべきか判断に迷いながら部屋を出た。

その店は繁華街から少し外れた場所にあった。
薄汚れた雑居ビルが立ち並ぶ一角で、雨の中にあるとその周囲はすべて灰色のモノトーンに包まれているようだった、

324 :喫茶店の話 ラスト ◆oJUBn2VTGE
2009/03/15(日) 21:26:43 ID:kR+moc+u0
空は一層暗くなり、雨はまだ降り続きそうな気配だ。
俺を傘を持っていない方の手で、その三階建てのビルを指差す。
後ろに立っている人物が頷く。
蓑と笠の風変わりな出で立ちに、通り掛かった人が遠慮がちな視線を向けてくる。
どうぞ見てください。それではっきり言ってやって下さい。おかしいって。
雨脚が強くなった。
ズボンの足元が濡れて来て、嫌な感触が広がり始める。
なんでもいいから早く入ろうと足を速めた時、隣の師匠がハッとしたように動きを止めた。
喫茶店はもう目と鼻の先だ。どうしたんだろうと師匠を伺うと、その顔つきが変わっている。上ずったような熱気が、急に冷めたようだった。
「どうしたんです」
そう問い掛けるのもためらわれるような変化だった。
師匠は喫茶店の店構えを見つめ、それからビル全体を眺める。つられて俺も傘を上げた。
なんの変哲もない雑居ビルだ。
喫茶店は『ボストン』という名前らしく、入り口にそんな看板があった。すりガラスが嵌っているドアからは中の様子が伺えない。小さな窓はあったが、内側に帆船の模型のようなものが飾ってあって、同じく中は見えない。
ビルの二階の窓には消費者金融の名前が出ている。そして三階にはなんとか調査事務所という控えめな看板が掛かっていた。
「ここなのか」
師匠は呟くように言った。ゆるやかな円錐形をした笠の縁から雨が流れ落ちていく。
その流れの向こうに深く沈んだような瞳があった。
俺は何も言えずに、二人並んで降りしきる雨の中にずっと佇んでいた。
まだ訊けない、重い過去への扉がその向こうにあるような気がした。



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ビデオ 後編

81 :ビデオ 後編   ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:10:27 ID:vbLvaS0Q0
師匠の部屋を出てから、自転車に乗って街なかをしばらくうろうろしていた。
考えがまとまらない。情報が多すぎる。官報の無機質な記事の中で、無数の人々の様々な死を追体験した俺は、人間の死とはなにか、人間の尊厳とはなにか、勝手に浮かんでくるそんな問いの答えをぐるぐると考えていた。
結局、黒谷という師匠の知り合いから買い取ったあのビデオは、駅員たちの怪談じみた噂話の中にだけ存在していたはずの、奇怪な死者の姿を画面の端にとらえていたものだった。
そしてそのビデオは供養のために寺に持ち込まれた。
なにか変だ。元駅員の二人から話を聞き、官報まで調べて俺たちはその死者の正体、いやそのしっぽにたどり着いた。だからあのビデオが恐ろしい代物だということを知っている。
けれど、ビデオを撮影した人間にとってはどうだ。ただ、素人の映像劇の撮影中に偶然撮れた鉄道事故の瞬間に過ぎない。確かに気持ちの良いものではないが、そこまで怯えるべきものだろうか。
俺たちは、このビデオがヤバイと聞かされて、積極的に情報を集めたからこそサトウイチロウにたどり着いたのだ。ただの鉄道事故の映像から、同じように情報を辿れるものだろうか。
なにか俺の知らない別のファクターがあるのかも知れない。
……
気がつくと駅前まで来ていた。
時計を見る。午後四時半過ぎ。財布を見る。一万円札がチラッと覗く。
「行ってみるか」
あのビデオの舞台である前原駅は多少遠いが今日中に行って帰れる距離にはある。
さっき師匠の言葉にビビらされた後だというのに、我ながら現金なものだ。好奇心が恐怖心にもう勝ってしまっている。というよりも師匠の話し方の問題なのだ、という気がする。

84 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:15:07 ID:vbLvaS0Q0
あの人は必要以上に俺を怖がらせようとする傾向がある。それに嵌ってしまう俺も俺だが。
キオスクで弁当を買って、ちょうど出発するところだった快速に乗る。
帰宅ラッシュにはまだ少し早い時間だったので、四人掛けの席の奥に座れた。
黙々と弁当をかきこむ。考えたら朝からなにも食べていなかった。ろくに自炊もしてないから、食べることに関しては本当に適当だ。
それからスーツ姿の人たちや学生服の群れで車内は込み始め、俺はざわめきの中で考えごとをしながら心地よい振動に身を任せていた。
一度乗り継ぎをしてから、結局特急料金を払わずに目的地にたどり着いた。
前原駅だ。
本当に田舎じみた周辺の駅よりは多少ましだが、それでも小さな駅だという印象は否めない。
伸びをしてから、一緒に降りた数人の客と改札へ向かう陸橋の階段を上る。日が落ちかけて、駅の構内は薄暗くなってきている。
改札の前に立ち、両手の人差し指と親指とでフレームを作って移動することしばし。見覚えのあるアングルを発見する。
ここだ。あのビデオはここから撮影していたのだ。そう思うと、何故だか分からないけれど身震いするものがある。
ホーム側にちょっと奥まったところだ。この角度では線路は見えない。
画面の端に映っていた「高遠駅」の矢印も確認する。あの特急列車が向かった駅だ。そういえば、サトウイチロウにまつわるこの前原駅の事件の一つ前は高遠駅で発生している。特急列車の通過する駅の順番と、事件はなにか関係があるのだろうか。
頭の中でうろ覚えの地図を再生するが、事件の発生順と駅の並びには法則性はないようだ。バラバラに起きている。
バラバラ……
その単語を思い浮かべた瞬間、視界の隅、向かいのホームに灰色のコートが見えた気がして思わずハッとする。

85 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:19:24 ID:vbLvaS0Q0
気のせいだったようだ。そんなものはどこにもない。そもそも、今は夏なのだ。全身を覆うようなコートなど、まともな人間が着ているはずはない。
複雑な気持ちでベンチに腰掛ける。俺はなにか起こって欲しいのだろうか。だいたい、ここにはなにをしに来たのか。
うつむき加減の目の前を、様々な形の靴が通り過ぎる。家に帰るのだろうか。誰も彼も足早に見える。
ふと、以前師匠とやったゲームを思い出す。雑踏の中で、無数の通行人の足だけを見る役と、顔だけを見る役を決めて、それぞれ別々に通った人を数えるのだ。
通路のようなある程度狭い場所でやっても不思議なことに計数した数字が異なることがある。単なる数え間違いのはずなのに、なんだか薄気味の悪い思いをしたものだ。
それから俺はベンチから腰を上げて駅の中を歩き回り、勇気を出して駅員にサトウイチロウの噂のことを聞いたりした。
けれどその配属されて一年目だという若い駅員は、その噂を知らなかった。それどころか五年前の事故のことも知らなかった。今いる先輩もここ三、四年でやってきた人ばかりだという。
当時の駅員が今どこにいるか知りませんか、と聞いてみたが「さあ」とめんどくさそうな答えが返ってくるだけだった。
その事故の時、死体を片付けた人の話を聞けばなにか分かるかも知れないと思ったのだが、簡単にはいかないようだ。
(サトウイチロウを片付けたら呪われる)
吉田さんはその死体処理をした数日後に、自家用車の事故で指を三本失う大怪我を負った。だが、「自分はまだいい」と語る。なぜなら、一緒に肉片を集めた先輩の駅員は、その一ヵ月後に自宅の鴨居で首を吊って自殺したのだという。
全然そんなそぶりも見せなかったのにと、関係者はみんな首を捻ったけれど、吉田さんだけは思わず念仏を唱えた。

87 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:22:35 ID:vbLvaS0Q0
無関係なはずはない。
そう思ったのだという。
「片付けたら、呪われる」
ホームの隅のベンチに腰掛け、サイダーの蓋を開けながら口にしてみる。頭の隅にある引っ掛かりの一つが、そこだった。
片付けたら呪われる。あのビデオが寺に持ち込まれた理由がそこにあるのか。
いや、違う。
何故なら、ビデオを撮影していた二人は死体に触れられなかったはずなのだ。カメラを持って線路に近づこうとした時点で駅員に制止されている。そこから制止を振り切って線路に降り、死体を片付けるなんてことが出来たとは思えないし、そんなことをする理由もない。
では、なぜビデオは寺に持ち込まれることになったのか。
考える。
死体を片付けていないのに呪いを受けたというのか。なぜ。
ビデオに撮影したからか。それだけのことで?
いや、待て。何か忘れている。
ビデオでは、コートの人物が線路に落ちるまで誰もそちらを見ていない。まるでそこにいても目に入らないかのように。そして、特急列車が通り過ぎて轢死体が現れて初めて、騒ぎになったのだ。
そうだ。吉田さんも言った。誰も死ぬ瞬間を見ていないと。あれは、最初から最後まで死者だと。
だから俺も思ったのだ。誰も見ていないはずの死者が、立って動いている姿を自分たちは見た。それは、とても恐ろしいことではないかと。
同じなのかも知れない。
ビデオを撮影した二人も、その瞬間には気づいていない。けれど後で気づいただろう。家に帰り、テープを再生した時に。灰色のコートの人物が、ホームの端からふらりと線路に落ちる瞬間を。

92 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:27:18 ID:vbLvaS0Q0
ただそれだけのことで。見たという、ただそれだけのことで、彼らの身に何かあったのだとすると。
本人ではなく、身内だとすると年齢からして母親と思われる女性が、寺に供養を頼みに来たのだとすると。まるで忌まわしい遺品を処理するようではないか。
見たという、ただ、それだけのことで。
そんなことを考えていると、ベンチに触れている腰のあたりにじっとりと汗をかいてきた。
俺も見た。
風が止んでいる。
どこからかひぐらしの鳴く声が聞こえる。すっかり暗くなり、人影もまばらな駅の構内に、その声だけが通り抜けていった。
それから俺は、やけに疲れた足を引きずるように帰りの電車に乗った。現地に来たものの、ほとんど収穫と言えるものはなかった。
動き出した電車の、ガタガタと揺れる窓を見ながら頬杖をついて物思いに沈む。何時に着くだろう。遅くなりそうだ。明日が土曜日でよかった。もっとも、平日でも関係なしにバイトや遊びにうつつを抜かす学生なのであったが。
よほど疲れていたのか気がつくとウトウトしていた。車内は閑散として客の姿もほとんど見えない。頭を振る。胸騒ぎのようなものを感じた。
そして、今どの辺だろうかと窓の外に目をやった瞬間だ。
頭の中をゆるやかな衝撃が走り抜けた。その影響はじわじわと心臓付近へ降りてくる。ドクドクと脈打ち始める。
夜景だ。どこかで見たことのある、暗闇の中、視界の左右に伸びる光の粒。
窓の外に流れるその光景に目を奪われていた。あれは北村さんと話した日。寝る前に電気を消した時に見た幻。瞼の裏に映った、そこに見えるはずのない夜景。
全く同じ構図だ。いや、あやふやな記憶が今この瞬間に修正されていくのか? 分からない。立ち上がりそうになる。

96 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:31:51 ID:vbLvaS0Q0
デジャヴなのだろうか。違う。北村さんと話した日、バイトがあったからあれは水曜日。その時、夜景を見たのは確かだ。記憶の混濁ではない。なんなんだ。
俺は混乱していた。
水曜日ということは、一昨日だ。今見ている光景を、二日前にまるで予知したかのように見ていたというのか。
あの夜、俺の瞼の裏には、まるで混線したように二日後の俺の視界が映し出されていた?
混乱する頭を抱えたまま電車は進む。やがて夜景も見えなくなった。名前も知らない街の光が。
漠然とした不安を抱えたまま、ホームタウンの駅に着いた時には十時近くになっていた。
駅ビルから出ると、駐輪場から自転車を出して来て、のろのろとまたがる。 
足に力を入れると夜の街の景色がゆっくりと流れていく。まだ電車に揺られているような、ふわふわした感じ。
自転車に乗ったまま半分夢うつつだった気分が吹き飛んだのは、深夜まで営業しているスーパーの前を通り過ぎてしばらくしてからだ。
まばたきに合わせるように、目の前に光の軌跡が現れた。暗い歩道を自転車で進んでいる時だ。なにもないはずの目の前の空間に、さっき通ったばかりのスーパーのケバケバしい明かりが、その光の跡が浮かんでいるのだ。
まただ。瞼の裏に浮かぶ光の幻。今度はたった数分前に通ったスーパーが。なんだこれは。そんなに疲れているのか。
困惑しながら自転車をこいでいると、また別の光が見えた。闇の中にぼんやりと浮かぶ四角い光。
薬局だ。スーパーから少し先に行った所にある薬局の看板。もちろん、とっくに通り過ぎている。
頭がくらくらする。
なんだこれは。次から次へ。まるで追いかけられているような気持ちなってくる。

101 :本当にあった怖い名無し
2009/02/22(日) 21:40:42 ID:vbLvaS0Q0
追いかけられて?
その言葉がザクリと身体のどこかに刺さった。
誰から?
俺を、追いかける理由のあるものから。
脳みそが、勝手にその姿を想像しようとしている。灰色のコート。帽子。マスク。手袋。
俺はさっき電車の中で夜景を見た時、「混線」という言葉を思い浮かべた。現在の視界が、過去の視界と混線したのだと。だが、その「混線」は、過去の自分のものとは限らないのではないか。
いつか聞いた師匠の言葉が脳裏をよぎる。
(闇を覗く者は、等しく闇に覗かれることを畏れなくてはならない)
昭和期から繰り返される、幾度も蘇る轢死者の潰れた眼球が、虚ろな闇の中からこちらを見ているイメージ。
最初は夜のビルだった。ビデオを見た次の日、あれは火曜日のはず。そのビルに見覚えは無い。次に見たのは水曜日の夜、夜景だ。それは、前原駅からこちらへ向かう途中に存在していた。
その次は木曜日の昼間見た軽四自動車。自動車が走るのは道路だ。鉄道ではない。
移動している。
もしあの幻視が、別の誰かの視界との混線だとするなら、その誰かは明らかに移動している。水曜日、電車に乗って夜景を見ながら移動していたそれは、どこで電車を降りた? そしてどこの街を彷徨っている?
ドキドキと心臓が鳴る。身体に悪そうな音だ。
思わず自転車に乗ったまま振り返る。追いかけて来るものの影はなにも見えない。
自然とペダルをこぐ足に力が入る。
ハッハッ、と自分の息遣いが他人のもののように聞こえる。
木曜の夜はなにも見なかった。金曜、つまり今日の昼間も。けれど、ついさっき俺は見てしまった。自分が通りすぎたばかりのスーパーの光を。薬局の看板を。

104 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:43:53 ID:vbLvaS0Q0
それが、誰かの視界だとするならば……
(ついて来ている)
そう考えてしまった俺は、叫びそうになりながら全力疾走した。
こんな訳の分からないことが起こり始めたのは、明らかにあのビデオを見てからだ。見てはいけないものが映ってしまったあのビデオを。
アパートが見えてきてもスピードを緩めない。ガシャーン、と駐輪場に自転車を突っ込んで、階段を駆け上がる。自分の部屋の前に立ち、ポケットの鍵をもどかしく取り出すとすぐに中へ飛び込んだ。
内側からドアに鍵を掛け、ずるずるとその場に座り込む。
まばたきをするのが怖い。なにか、そこにあるはずのないものを、その光の跡を見てしまうのが、どうしようもなく怖い。
深呼吸を何度か繰り返す。
今日までにあったことがフラッシュバックする。
深呼吸する。
もたもたと這うように流しに向かい、蛇口から流れる水に口をつけて飲む。
腹の中から疲れが押し寄せてくる感じ。
部屋の中に入り、明かりをつける。
何も変わったことはない。
散らかった室内。読みかけの漫画と、小説の束。ゲーム機。脱ぎ散らかした靴下。食べたままのカップ麺。テーブルに重ねられたレンタルビデオ。微かに膨らんだ、レンタルビデオ店のビニール製の袋。
目が留まった。
テーブルの上に乗せられた、レンタルビデオ店の名前が印字されているその青い袋。その膨らみから、ビデオテープが一本だけ入っているのが分かる。
おかしい。火曜日に二本みた。くだらないSFとくだらないホラー。そして水曜日には三本みた。アクションものばかり。

108 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:53:03 ID:vbLvaS0Q0
五本千円で一週間借りているビデオ。
では、あの袋に残っているのはなんだ?
息が荒くなる。視界が歪む。
手が伸びる。自分の手ではないみたいだ。
知りたくない。知りたくない。
そんな言葉が頭の内側で鳴る。けれど手が止まらない。どぶん、と粘度の高い流体に手を突っ込むようだ。指先まで意思が伝わるまで時間がかかるような。
生理的な嫌悪感がぞわぞわと皮膚の表面を這い回る。
袋のざらついた感触。指先がその中へ入っていく。プラスティックの角に触れる。掴み、ズルズルと取り出す。
その表面に書かれた文字を見た瞬間、停滞していたような時間が弾けとんだ。
思わず吹き出してしまう。ここでは言えないようなタイトルだ。借りたことをすっかり忘れていた。いつもは旧作ばかり五本借りるのだが、衝動的にそういうビデオを新作料金で別に借りていたのだった。
今までの恐怖心もすべて消え去って、バカ笑いしてしまった。自分の間抜けさにだ。
だから、チャイムが鳴った時もまるでいつもの感じで気安く「はい」と返事をしながらドアに向かったのだ。笑いを引きずったままで。
けれど台所の前を通りドアの前に立とうとした瞬間に、その奇妙なものが目の前に見えて足が止まった。
まばたきの間に自分の姿が見えた。ドアの前にドッペルゲンガーが立っていた訳ではない。
そのもう一人の自分の姿の背景には、台所とその向こうの部屋とがある。
視点が反転している。大きな鏡の前に立ったような。けれどその鏡は丸く歪んでいる。自分の姿も、台所も、端の方は歪んで潰れたようになっている。
丸い視界。今度は光の跡ではなく、視界そのものだ。

112 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 21:59:56 ID:vbLvaS0Q0
目を開けると、その反転した視界は消える。そして目の前のドアに釘付けになる。正確には、そこに開いた小さな覗き穴、ドアスコープに。
何かが動いた気配。
一瞬、スコープの周囲の金具がキラリと光る。外の通路の蛍光灯に反射したのか。
そしてすぐに穴は暗くなる。
誰かいる。
あの丸い穴からこちらを見ている。
まばたきをする。
また、自分が見える。
混線した視界が、あちらの見ているものを俺に見せたように、俺の見ているものをあちらにも見せていたのだろうか。
そして辿られた?
セミが鳴いている。甲高く。耳のすぐそばで。足に鉛が入ったように動かない。
ドアの向こうの気配が強くなる。
ドンドン、とノックが二度。
けれどそれは、、変に潰れたような音だった。ドンドン、というよりもベタ、ベタ、とでもいうように。
顔が引きつる。上唇が痙攣する。想像してしまう。
コートの下は、はじめから、バラバラなのかも知れない。
肉片から、肉片へ。死体から、死体へ。
最初から、最後まで、死者のままで。
動けない。金縛りにでもかかったかのように。逃げなくてはならないと、頭のどこかでは分かっているのに。
鈍い音がして、ドアの足元に目が行く。軽い振動。ドアの下のわずかな隙間から、ゴツゴツと、なにかを押し込もうとしているような音。
指を、想像する。
そしてやがてそれが肉がひしゃげるような音に変わる。

114 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 22:03:50 ID:vbLvaS0Q0
メチメチメチという生理的な嫌悪感を煽り立てる音に。
やがてドアの下の隙間から何か赤黒いものが見えてくる。爪も皮も剥げた、十本の薄く延ばされた棒のようなものが。
ドアスコープは暗いままだ。
誰かの目がそこにあるままで、ドアの下からは手の残骸のようなものが捻じ込まれようとしていた。
同時にカタリ、とドアの真ん中に取り付けられている郵便受けが動いた。
セミが鳴いている。
頭の中に、記憶が蘇る。いつかの降霊実験の記憶が。俺は見たぞ。これを。
この後、郵便受けが開いて、その隙間からなにかがでてこようと……
それからどうなった? 早く思い出さないといけない。隙間からでてくるまえに。脳がうまく働かない。
そうだ。誰かが助けてくれた。あれは誰だ?
セミが鳴いている。
思い出した。
その人はもういない。
俺は助からない。
そう思うと力が抜けた。魂が抜け出るように膝から崩れ落ちた。
それでも身体を反転させて、這った。這おうとした。夢の中にいるように、全く進まない。後ろから肉の音がする。
少しでも遠ざかろうと、それでも這った。台所を抜けた。開いた室内ドアの段差を越えて、部屋の中まで逃げ込んだ。
後ろは振り返れない。
時間の流れが分からない。十分以上経った気もするし、一時間以上経ったような気もする。冷たい汗が顔を覆って、床にしたたり落ちる。

115 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 22:06:07 ID:vbLvaS0Q0
そしてある瞬間に、蝋燭の火が消えた。
現実に存在しているわけではない、どこかよく分からない場所にある蝋燭が消えた。
とたんに身体が動き、俺は窓ガラスにかきついた。もたつきながらカギを開け、ベランダに出る。
そして手すりを乗り越え、雨どいにしがみ付いて下に降りた。嫌な汗をかいた身体に風が冷たい。腕を擦りむいたが、気にしていられない。
一階の各部屋のカーテン越しに漏れる明かりをたよりにアパートの外側を駆け、駐輪場までたどり着く。
なにもいない。
倒れている自分の自転車を引き起こすと、すぐさま乗って後も見ずに走り出す。
無我夢中でペダルをこぎながらどこに向かうべきか考える。
一つしかなかった。
やがて師匠の家に着く。
ドアをノックする。開いているよ。知ってます。
散らかったアパートの部屋に転がり込む。
息を整えると、ようやく少し落ち着いてくる。
「おい、やっちまったよ」
師匠が落胆した表情で、狼狽する俺にもたれかかるような視線を向けてくる。その指の先にはビデオデッキがある。
「今日の金曜ロードショー、アレだったからさ。ビデオに採ろうと思って。それで、やっちまった」
俺はついさっきまでの恐怖心を消化するためのブツケ先も分からないままに、「なにをです」と聞いてしまった。
「だから、ビデオに採ろうと思って、ダビングを」
「はあ?」
声が上ずった。
「例の、五万円に」

118 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 22:16:06 ID:vbLvaS0Q0
唖然とした。
いや、今日あるって知らなくてさ、慌ててCM中にソッコーでその辺のビデオつっこんで録画したんだけど。……やっちまったよ。
そんなことを言いながら力なく笑う師匠を前に、俺は恐怖心も吹っ飛んでいた。
時計を見ると十一時を大きく過ぎている。
師匠がデッキに手を伸ばし、少し巻き戻したあと再生ボタンを押すと銭形警部が「ルパンめ、まんまと盗みおって」という、聞いているこっちが恥ずかしくなるような前フリをクラリス姫にパスするところだった。
そのままエンディングを迎え、ノスタルジーを感じさせる曲が流れて幕が下りる。そして砂嵐。
その砂嵐もすぐにガツンという音とともに終わった。
「三倍モードにするのも忘れてたんだ」
泣きそうな声色をしながら、師匠は「五万が……」と呟いた。
俺は蝋燭が消えたように感じたあの瞬間の正体が分かり、力が抜けた。今度は心地よい脱力だった。
こんなことで良かったんだ。
次から次へと笑いがこみ上げてきた。俺は手がかりを求めて現地の駅まで行ったというのに。
師匠が恨みがましい目でこっちを見ている。
間抜けにもほどがある。
「あまりにも散らかしてるからですよ」と偉そうに注意する。「しかも今さらカリ城ですか。散々見てるでしょう。セリフを覚えてるくらい」
言いながらハッとする。
そうだ。

119 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 22:18:30 ID:vbLvaS0Q0
師匠は何故か『カリオストロの城』が好きで、場面場面の細部まで覚えていた。自力で、冒頭の札びらシャワーの車の後部座席に五右衛門が乗っていることに気づいたというくらいなのだからかなり凄い。
その師匠が、今さらダビングを?
俺はもう一度師匠の顔を伺った。冷静に観察すると、落ち込んでいるというより憔悴し切っているように見える。
力なく笑うその顔が、やけに遠く感じたられた。

それから、俺の部屋で起こった出来事を説明すると師匠は興奮して車に飛び乗った。
俺も無理やり連れられてアパートに戻ると、ドアの外も部屋の中もまるで何ごともなかったような様子だった。
這いつくばってドアの下を見るが、何かが擦れたような跡すら残っていなかった。
「触媒だったというわけだ」
ビデオが。
そう言って師匠は腕組みをした。幻覚だ、とあっさり片付けられなかったことが妙に嬉しかった。
結局ビデオにまつわる事件はそれで終わりだった。なんだかあっけない気もしたが、駅に勤める多くの人の口をつぐませながら何十年も続いている奇怪な出来事がその全貌を現すなんてことは、そうそうあってはならないものなのだろう。
なにより、俺はもうこれ以上首を突っ込みたくなかった。何故なら、ビデオに残された情報が消えてしまうことで、沿線から遠く離れたこの街にあの恐ろしいものが影響力を及ぼす理由が無くなったというだけのことであり、現実にはなにも解決していないのだから。
それはこれからも起こるのだろう。
俺の知らない街の、知らない駅で、明日にも……

123 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 22:22:26 ID:vbLvaS0Q0
次のバイトの日、北村さんに「サトウイチロウどうだった」と聞かれたが、生返事をしただけではぐらかした。
「吉田さんは元気でしたけど、暇そうにしてましたよ」と言うと、「そうかぁ。ボクも今度会いに行こうかな」なんて、懐かしそうに眼鏡をずり上げていた。
その数日後に会った時、師匠はこう言った。
「仮定の話だ。真相は分かりっこないからね。そう思って聞いてくれ。……サトウイチロウが出没したのは特急列車が通過した時ばかりだったな」
特急列車に飛び込み自殺があると、清掃や車体の破損チェックのあと運行再開までの時間が長くなった時には影響を受けた乗客に対し特急料金の払い戻しをするケースもあるそうだ。
その払い戻しの額次第では、残された遺族に対して損害賠償請求が行われても、とても払えないような莫大な数字が上がってくることがあるのだとか。確かにそんなことを聞いたことがある気がする。
実際に、そういう払える見込みのない訴えがあるのかどうかはともかくとして、そんな可能性があると、一般人に思われていることが重要なのだ。
その通念は、官報に載った行旅死亡人の引き受け人探しにも暗い影を落とす。
たとえ本人に身寄りがあり、遺族がその情報に気づいたとしても、そうした通念が、イメージがある限り、おいそれとは手を上げられなくなってしまう。
そして引き取り手も現れないまま、ひっそりと忘れ去られるように消えて行く死者たち。
そんな忘れ去られて行く者の残した思いが、まるで再現するように奇怪な事故を繰り返すのではないか。
「今度こそ、家族が名乗り出てくれる。そう思ってね」
師匠のその言葉に、俺はしかし釈然としなかった。
「だったらなんで、呪いなんて掛けるんです」
「知らない」

124 :ビデオ 後編  ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 22:25:57 ID:vbLvaS0Q0
あっさりとさじを投げた師匠に拍子抜けして、溜息をつく。
「死んでみなければ分からないことがあるってことだ」
まあ、良かったじゃないか。同じように『見てしまった』ビデオの中の彼らは、想像するだに恐ろしい運命を辿ったかも知れないのに、僕らは無事だったんだから。
「これも日ごろの行いの賜物だ」師匠は冗談めかして言う。「もっとも、死体に触れていたらこんなものでは済まなかっただろうけど」
日ごろの行いがどう転んだのだか知らないが、そう言えば、呪いの矛先は俺にばかり向いていた。一緒にビデオを見たはずの師匠に何ごとも起こらなかったのは何故なのか。
それからビデオについて警告してきたということは同じく中身を見ていたはずの黒谷という師匠の知り合いも、まるで平然としていた。納得がいかない。
ぶつぶつと言うと師匠は鼻で笑い、「僕と、あのオッサンは手ごわいからな」と言い放った。
「どっちが、より手ごわいんですか」と聞いてやると、平然と自分を指差している。
しかし少なくとも、スタンスの違いはあるらしい。
後日師匠の部屋でごろごろしている時にそれに気づいた。
師匠が近くのコンビニへ買出しに行っている間、何気なく棚の上を眺めていると一枚の便箋を見つけたのだ。
それはボールペンで書かれていて、中には何度か訂正した跡があり、清書前の下書きのようだった。
あのビデオを、片方は供養もせずに売り飛ばした。そしてもう片方はいろいろやってみるだけの好奇心というのか、興味というのか、そういうものがあるようだった。
便箋はこういう書き出しで始まる。

127 :ビデオ 後編 ラスト ◆oJUBn2VTGE
2009/02/22(日) 22:29:25 ID:vbLvaS0Q0

前略(という文字を消した跡がある)

 突然のお手紙、申し訳ありません。私は五年前にそちらで弔っていただいた行旅死亡人の家族です。こちらの名前と居所はどうかご容赦ください。
 私はつい先日その事実を知り、電車を乗り継いですぐにもそちらへ伺おうと考えました。
 ですが、五年も経っていること、そして荼毘に付していただき、今は安らかに眠っているだろうことを思うと、その故人を起こしてまでこちらで引き取るということが、良いことなのか分からなくなりました。
 悩んだ末に、筆だけを取らせていただきます。
 身勝手なお願いで心苦しいばかりですが、故人をどうかそのまま眠らせてあげてください。遺品も、出来れば遺骨と一緒に弔っていただければ幸いです。
 私は会いには行くことは出来ませんが、遠くから心よりの冥福を祈っております。
 本来ならば拝眉のうえご挨拶を申し上げるところ、略儀ながら書中をもってお礼とお詫びを申し上げます。
                               草々(消した跡) 
某年某月某日

                             なにか消した跡

前原町長様        



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